歴史

人形町の由来

江戸時代の人形町周辺は、歌舞伎小屋の中村座と市村座を中心に江戸随一の歓楽街として栄えておりました。
歌舞伎は当時上流階級の娯楽というものでしたので、庶民の娯楽として薩摩浄瑠璃や人形芝居が人気を博しておりました。その需要に伴い多くの人形師が住みつき、いつの頃から通りの名が人形町通りとと呼ばれるようになりました。1933年(昭和8年)に正式にこれらの町名が「人形町」という町名に変更されました。

板倉屋の創業

乾物屋として創業していた初代板倉屋店主、藤井貞三は人形町の名物を模索していました。そこで全国各地で焼き菓子専門職人として経験を積んだ吉本氏とあれこれと商品開発に努めました。明治中期頃、日本橋一帯は道路が次々と舗装され、流通が格段に進歩しました。そこで一気に庶民の食材として広まった小麦粉や卵に目をつけます。吉本氏が以前携わったことのある大阪の焼き菓子、釣鐘まんじゅうを基に人形町の町名の由来でもある人形を模したお菓子、人形焼が誕生しました。

人形焼は全身像!?

現在では七福神の人形焼というと、顔をかたどった人形焼が主流ですが、創業当時は全身をかたどったものしか存在しませんでした。
いまのと比べるとスリムな印象ですが、人形らしさはよく表現された型といえるでしょう。今では全身像の型自体、ほとんど残っておりませんがまだ当店においてございます。

人形焼の進化

昭和30年代頃の人形町は、東京駅に新幹線が開通したことなどもあり、人口も一気に増加した時でもありました。それに伴い、人形焼もとても人気のお菓子として定着してまいりました。その折、さらに美味しい人形焼をお客様に提供することはできないかと考え、初代藤井貞三、吉本氏と型職人の型源氏の3人で新しい人形焼づくりを思案しました。口当たりの良い大きさ、焼いた時のバランス、あんこの量、表情などを追求し、現在の顔の形をした人形焼になりました。これからもおいしい人形焼を提供し続けてまいります。